| 2004年度 11月 悠遊自在塾資料 人生放談 (心の語らい)gD 〜 gF 東京第七回クルーズ |
人生放談(心の語らい)/ メール交換日誌 a@D
☆ 一宗の繁栄は、一人の信心から! ☆
■ 鴨宮講師さん、おはようございます。■
いくぶん秋らしくなってまいりましたが、お元気でいらっしゃいますか?
○○教会のMです。お勉強有難うございます。
先月のお勉強が終わり、「毎月お勉強どうだった」と聞く娘に、学んだことと今の自分の心をだすと「お母さん、苦はそれだけ? 幸せね!」という言葉が返ってきました。
確かに今年になってからの私の悩みは固定されていて、婦人部さんをお世話する中での主任さんとのかかわりで思うようにいかないことが私の苦しみでした。
娘から言われ、透析をしながら頑張ってくれている主人・沢山の人のおかげさまで人間関係の難しい息子が自立という目標に向かって元気でいてくれること・娘と教えを語り合える幸せを頂いていることに改めて感謝させていただきましたが、現実は厳しいですね。
主任さんに自ら歩み寄る中で、先日、主任さんと婦人部さんのことで「一つになれていることが嬉しい」と伝えますと、「私の法座だから当たり前」と言う主任さんをも認められ、涙が出るほど嬉しい気持ちになれました。
私のこれから生きていく基盤づくりを、お勉強で教えていただけることが本当に有難いです! ありがとうございます。
長くなってしまい申し訳ありません。
あと二回のお勉強ですが、どうぞよろしくお願いいたします。 合掌
2004年9月06日 ○○ ○○より
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■ ○○ ○○さま ■
返事が遅くなってごめんなさい!
残暑は厳しいですが、風は、すでに秋ですね。
九月七日八日の勉強会では、貴女の課題については直接に触れませんでしたね。
しかし、最後の日には「婦人部」の問題を勉強しあえましたよね。
婦人部長さんとしては、どうしても「組織」と「活動」に意識がいきますよね。
「組織」は、何のためにあるのでしょうか?
「活動」は、誰のためにするのでしょうか?
組織は、複数の人びとの「調和」を図り、「秩序」を保ち、一人ひとりを生き生きと「存在」させるためにあると思うのです。
「人は石垣、人は城」という歌がありましたね・・・。
釈尊教団では、どうだったのでしょうね。
お釈迦さまは、宇宙の真理を悟られて「仏(覚者)」と成られ、五人の修行者に「法」を説かれました。(布教伝道です)
その五人が帰依して「僧伽」が出来ました。
「仏・法・僧」の三宝が整い、釈尊教団が誕生しました。
釈尊の教えに感化されて出家修行者が六十一人になったとき、「二人して一つの道を行くことなかれ」と布教伝道の旅に出られました。
☆ 歩みをおこなえ、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、
世人に対する共感のために、神々と人間との利益安楽のために。
二人して一つの道を行くことなかれ、初め善く、中ごろ善く、
終り善く、理と文とそなわった教えを説け。」
(中村 元著「人間釈尊の探求」P.180)
多くの人々に教えを説き示すために、二人して一つの道を行くなと・・・
釈尊教団の「活動」が、始まったのです。
お釈迦さまの教えの「実践と布教」が「活動」だと思うのです。
私たちは、「僧伽」をつくるために行事や諸活動をしがちです。
布教は、一人びとりの「仏性開顕」のためにするのではないでしょうか。
人間として「生き方を確立する」ために活動すれば「修行」になる。
「僧伽」作りの活動は、イベント活動です。
何人集めた、何人集まった、という「数と量」によって評価されますね。
「数は力なり」というのは、「世法」ではないでしょうか?
政治の世界であったり、企業の世界の話ですよね。
これは、婦人部だけの問題ではないと思います。
組織・全体の問題です。
かつて、師から次のようなご指導を頂いたことがあります。
それは、平成十年次「***指導会」(六月九日)でした。
「一宗の繁栄ということは、多くの人々が集まり、
威勢の盛んなことではない。わずか一人であっても、
信心を得ることが一宗の繁栄である。」 <蓮如>
蓮如上人のお言葉を引用されてのご指導でした。
信仰の原点。本質的な救われを目指して精進・修行したいものです。
婦人部の人たちは「母であり、妻であり、主婦であり、女性」です。
母として、妻として、主婦として、女性として「教え(真理)」を身に着けるために精進する「法友」であり「僧伽」です。
「私の法座だから当たり前!」という主任さんの言葉は、「組織活動」そのもの
を象徴していると思います。
私は「怒り」を感じます。涙が出るほど「悲しい」です。
「私の法座」とは、何事ですか! 驕慢も甚だしいですよ。
その主任さんは、エネルギッシュで人情家なのでしょうね。
人の面倒見も良い方なのではないですか?
素晴らしいエネルギーを持っている人だと思います。しかし、「本質的な救い」に繋がっていかないと思います。このような地区法座があり、主任さんがいる
ということは、今日まで私たちが「組織活動」をしてきた証であると思います。
Mさんも婦人部長として、「私の婦人部」を作らないでください。
一人ひとりの「人間づくり」を目指してください。
Mさんが、涙が出るほど嬉しかったのは、自分の心に「瞋恚(怒り)」の心が起きなかったことに喜びを感じたのですよね。
それは素晴らしいことですが、真理(現実)は厳しいですよ。
常に心が「清く、優しく、美しく」生きることは、難しいことです。
いつも、そうありたいものですが・・・ 合掌
2004.09.22. 鴨宮 弘幸 拝
| 11月度 資料2 |
人生放談(心の語らい)/ メール交換日誌 a@E
☆ 素直とは、己に対して正直になること! ☆
■ 命の根を深く育てて行きたいです!
■
二日間にわたる学習会ありがとうございました。
鴨宮講師さんのいつも縁ある人を大切にされ、求道され輝かれていらっしゃるお姿にふれ、また、心温まるご指導を頂き、心が洗われ元気にならせて頂きました。
「変われるのは自分だけ!」と、頂いたお言葉を大切に日々を送って行きたいです。意識をしないと自分の心を見つめる事は、日常の中でしていないなあーと思いました。
瞬時に起こった気持ち(喜んだり、悲しんだり、嬉しくなったり、怒ったり、等)だけで生活していると、生まれたままの個性でいつも同じ事で悩み、同じ人とぶつかり、その度にご指導をい頂き実行すれば救われるので、すっかり自分が変わった気で精進していると誤解していました。ご指導を頂いて生活を変えていくことが身に着いてしまい、自分で考え、自ら行動することは、わがままな事のような錯覚をしていました。
縁あって参加させて頂いたのだから生まれたままの自分が、み教えのお蔭様でどう変わって来れたのか?
変わっていないところは何処なのか?
シッカリ見つめて行きたいです。
周りのせいや、人のせいにせず、動いた心の奥を「善悪」で判断しないでありのままに受け止める修行をして行きます。
息子にも真剣にぶつかっていこうと思います。
そう思ったら、19歳の今時の男のくせに、眉毛を私より細くし、大人に対しては、いつもムカついていて、すれ違う大人は恐くて避けてしまうのに、なぜか赤ちゃんや幼い子が寄って来る、そんな喋りにくい息子とスムースに会話が出来るようになりました。
才覚しないで触れ合うって、すごく楽だし、変に気を使わないから相手の気持ちも見えるような気がします。
「母ちゃん、俺の仲間で親とこんなに話すやつは、いないぞ!」と、温かい言葉をかけてくれました。
講師さん、ありがとうございました!! 合掌
2004.09.11. ○○教会 K.Y. より
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■ K.Y.さま ■
素晴らしいことに気づかれましたね。
「自分で考え、自ら行動することは・・・」と、おっしゃっている「自」について、漢和辞典を引いてみました。
「自」とは、人の鼻を描いた象形文字だそうです。
「私が」というとき、鼻を指すので、自分の意に転用された。
また出生のさい、鼻を先にして生まれ出るし、鼻は人体の最先端にあるので、「・・・からおこる、 ・・・から始まる」という起点をあらわすことばとなった。と、解説されていました。
意味としては、@ みずから 自分で。 /「自殺」・「自立」・「自負」
A おのずから ひとりでに。自然に。 /「自生」
と、出ていました。
仏教語の中には、「自業自得」・「自灯明、法灯明」・「自力、他力」・「自然法爾」・「自ら仏に帰依し奉る・・・」という三帰依文etc. いろいろありますね。
なぜ辞書を引いたのかというと、「本質の自分」、「自分の本質」とは何かというヒントが欲しかったのです。残念ながら得られませんでした・・・。
そのことについては、すでに学んでいますよね。
自分の本質とは、「仏性」であるということを・・・
しかし、「自」という漢字としての由来が解かっておもしろかったです。
自己中心の「自分」のことを仏教では、「我」といいます。
ですから、自己中心で行動すれば「我が儘」(身勝手)になります。
「自分で考え、自ら行動する」ということは、本来の自分(仏性)に基づいて考え、行動するということですよね。
自分を変えるのではありません。
本来の自分に蘇るのです。本来の自分に帰るのです。
自分らしさを発揮することです。
昭和二、三十年の頃の修行のあり方は「『カラスの頭は白い』と言われたら『ハイ』と受けなさい。」と言うものでした。
一見、無茶苦茶な感じの指導のようですが、その真意は、その人の固定観念というか価値観を打破するためだったのです。
私たちの頭の中には、今までの人生(生活)で得た経験や知識によって、自分なりの「価値観」が一杯に詰まっています。
まさに、水が一杯に入ったコップのように・・・
そのコップに、新鮮でおいしい水を入れようとすれば、今までの水を捨てなければなりません。
「カラスの頭は白い」に対して、恩師は次のようなご指導を下さっています。
☆ 「自分に固執する小さな考え、自分の考えこそ正しい、自分の行き方は
絶対に間違っていないのだ、といった自分中心の見方や考え方にしがみつくことが人を不幸に引き込む元凶なのです。その自己中心の見方しかできないめがねを外しなさい。そして、かたくなな心をほぐし、素直な気持ちになることが信仰ではいちばん大事なのですよ、と教えてくださっていたわけです。これが質直意柔軟です。」
(「瀉瓶無遺」60・P.80 参照)
今までの、自分中心な考え方や感じ方を、いったん捨ててみる。
先輩や幹部(リーダー)さんの、ご指導やご指示を素直に聞いてみる。
それに随って実践してみる。
すると、新しい世界を体験することができる。
この繰り返しを今日まで、Yさんは、実践していたのだと思います。
ですから今までの修行が間違っていたわけでもなく、無駄になったわけでもありません。
今日からは、仏性に目覚めた精進をはじめればよいのです。
自分の仏性に目覚めてはじめて、他人の仏性を礼拝することができるのです。
息子さんの仏性が開顕されることを祈念いたします。 合掌
2004.09.26. 鴨宮 弘幸 拝
| 11月度 資料3 |
人生放談(心の語らい)/ メール交換日誌 a@F
☆ 人身受け難し 今すでに受く ☆
■ 彼岸会のご法話ありがとうございました!■
お彼岸には、世間ではお墓参りに行き、自分の先祖に手を合わせて祈ります。
それは、学習会で教えていただいた「因果の法則」で鴨宮講師さんが、優しいお言葉で、ご法話の中で教えて下さった血縁のない、一度も会ったこともない方や生きとし生ける全てのモノと連なりあっている私たちに気づいていくと「感謝の心」が育っていく。
それが「縁起の法則」と「諸法実相」を身で学んでいくことと感じました。
世界中の人達がそのことに気づいたら、世界が平和になるのに!
彼岸会にご先祖様にそんな思いをこめて祈りを捧げたいです。
来週から家族で、独り暮らしの87歳になる主人の母に、孝行をしに八年ぶりに鹿児島に帰郷してきます。
お墓参りにも行って来ます。
合掌 2004.09.14. K.Y.より
〈追伸〉 携帯を新しくしたのでメールアドレスが変わりました。
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■ K.Y.さま ■
私たちの人生における最大に価値あるもの(宝)は、「いのち」です。
その「いのち」を頂いてこの世に存在できたのは、両親が在ればこそです。
現在の生活(人生)が充実し、満たされている人は「いのち」を授けてくださったご両親に「感謝」しやすいですよね。
しかし、現実の生活は「苦しみ」・「悩み」・「迷い」でいっぱいですね。
ですから、なかなかご両親やご先祖様に「感謝」するという気持ちが湧かないものです。
親に感謝ができず、親不孝を繰り返して一生を終わる人が多いのです。
私たち人間がこの地球上に誕生したのは、約五百万年前と言われています。
人類最初の「いのち」が今日まで途絶えることなく連綿と続いている。
私たちが今「在る」のは、父・母があり、またその父と母がいて・・・
五百万年前までの両親の数を計算すると・・・数え切れませんね!。
一代前の親は二人、二代前の親は四人だから、合計すると六人になります。
このようにして計算してみると、五代前までの親は、六十二人になります。
三十代前にさかのぼると、二十一億四千七百万人になるのだそうです。
一人の人間が誕生するには、母親の一つの卵子と父親の五億分の一の精子の結合によって生まれるのです。
つまり、一つの卵子に向かって五億の精子が突進するのだそうです。
五億のなかのトップ(優勝者)だけが結合できる。
このような事実によって一人の「いのち」がこの世に出現する。
人間一人の誕生は、ものすごい競争率に勝ち抜いたエリートなのですね。
これは、人間だけに限らず地球上に存在するすべての動植物にも言える事です。
「一切衆生悉有仏性」ということですね。
「いのち」の不思議を感じます。「不思議」としか言いようがありません。
今ここに居る私たち一人は、かけがえのない「存在」なのですね。
お釈迦さまは、初期の経典(法句経)で、次のように述べられています。
☆ ひとの生を うくるはかたく
やがて死すべきもの
いま生命あるは ありがたし
正法を 耳にするはかたく
諸仏の 世に出ずるも ありがたし 『法句教』182.
また、『法華経』二十七品(妙荘厳王本事品)にも次のように在ります。
☆ 仏には値いたてまつること得難し 優曇波羅華の如く、
又一眼の亀の浮木の孔に値えるがごとし。(三部経 P.376)
私たちが、この世に生を受けているということは「有り難いこと」なのです。
そこで、私たちはこの『命』をどのように使ったらよいのでしょうか?
中国、元代の禅僧・智覚禅師が座右の銘とした言葉があります。
☆ 人身受け難し 今すでに受く
仏法聞き難し 今すでに聞く
この身、今生において度せずんば
更にいずれのところに向かいてか、この身を度せん
「度す」とは「渡す」という意味です。
迷いの世界から、悟りの世界へ渡ることです。
つまり、此岸から彼岸へ渡るのです。
人間としてこの世に「いのち」を頂いている今、私たちは「意識の進化」を目指して精進すべきなのです。
私たちが「総戒名」を「お祀り込み」するのはそのためです。
親孝行と先祖供養は、「いのち」を頂いた「感謝の実践」なのです。
それが、宗教的な「親孝行」なのです。
道徳的な「親孝行」との違いです。
親や先祖から頂いた『いのち』であるのは間違いないのですが、私たちが生きていくには、空気や水はもちろんのこと衣食住に関わる多くの人や物のお陰で生存できるのです。
私たちの「いのち」は、両親やご先祖様からだけでなく、地球上に存在する、すべても「モノ(こと)」のお陰です。
この世に存在する「モノ(こと)」に「無駄なモノ(こと)」は無いのです。
すべてが「必要なモノ(こと)」なのです。
自分にとって不都合と思える「モノ(こと)」も、かけがえの無い「モノ(こと)」なのです。
宇宙の進化の歴史(NHKスペシャル「地球大進化」)を見ていると、今日の人類の存在は、不可思議の連続としか思えません。
まさに「生・住・異・滅」の繰り返しです。
☆ 一切の諸法は念念に住せず新新に生滅すと観じ、
復即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。(三部経P.11)
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ここにある「諸法」とは、「色々なものごと・出来事」という意味です。
すべての存在・現象は、常に「変化」するものであり、孤立して存在するものは無い。
つまり、必ず「他と関係」して存在している。
それを仏教では、「諸行無常」・「諸法無我」というのです。
お釈迦さまが、悟(覚)られたのは、このことです。
すべての現象は、「因」と「縁」の出会いによって在る。
「縁起の法則」によってこの宇宙は成り立っている。と・・・・
☆ 諸法の性は 二相有ること無し 猶お虚空の如しと観察するを見る
又仏子の 心に所著なくして
此の妙慧を以って 無上道を求むるを見る (三部経P.45)
この宇宙のあらゆる「ものごと」(諸法)の性質には、本来差別というものはなく、大空が何処をとってもかわりがないのと同様であると観じています。
心に我の執着がなくなり、万人・万物の平等性を見通す「智慧」を成就することによって、仏道を求めている。という意味になります。
私は「妙慧」という言葉に注目しました。
「慧」というのは、ものごとの平等性を見る知力です。
現象世界は、相対の世界であり、差別の世界です。
その「差別・相対」を超越した〈ものの見方、考え方、感じ方〉ができた時、「実相の世界」・「絶対の世界」の住人になることができるのです。
「無上道に入る」のです。
現象の変化にとらわれなくなった時、初めて得られる「 真の安心の境地」・「涅槃寂静」の世界です。
三十年前の恩師のご指導に、次のようなお言葉があります。
☆ 「一度悟ったら、その悟りは永久に身についていると思うのは、
大間違いです。生きているものすべて、ジッと動かずにいますと、
しだいに生気を失い、ヒカラビてきます。悟りも生きものです。
悟ったからもう大丈夫と、その上にあぐらをかいていますと、
悟りはいつの間にか活性を失い、カビが生えてくるのです。」
1974.09.(昭和49年9月)
「ヒカラビず、カビを生やさぬ」ためにはどうすればよいのか?
「六波羅蜜を行ずる」ことだとご指導くださっています。
菩薩行の実践です。此のことについては別の機会に譲ります。
「真の安心の境地」とか「涅槃寂静の世界」というと、シーンとして静かな光が満ち満ちている世界をイメージしがちです。
それは「寂」とか「静」の字からくるのではないでしょうか。
現代の訓読みでは、「しずか」とか「さびしい」と読むために、なんとなく消極的な感じに受け取られます。
☆ 「寂」とは、「大調和した状態」です。
今まで「寂」とは「変化を離れた」ということで永遠に変化しない、じっとしているもののように感じられてきました。
本来の意味は、変化しながら変化を超越した、すなわち「どう変化しても常に周囲と調和を保っているので、変化が変化にならない」・・・というあり方が、「寂」の真意のようです。
(新釈・法華三部経 1.P.167参照)
三十年前の恩師のご指導で締めくくりたいと思います。
☆ 『秋は心が内へ向かう時期だと冒頭に申しましたが、その“ 静 ”は新しい“ 動 ”を内に孕んだものでなくてはなりません。あたかも秋に実る植物の種子が一粒万倍のエネルギーを秘めているのと同じです。
どうか、以上のようなことをしっかりと噛みしめて、ここで到彼岸のた
めの新しい出発をしていただきたいものであります。』
1974.9.(昭和49年9月)
合掌
2004.09.23. (お彼岸のお中日に記す) 鴨宮 弘幸 拝
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追伸 : 例・[親不孝から救われる三つの法則]・・・
☆ 「因果の法則」に基づいて考察すると、親孝行をしてもらいたかったら、親孝行をしなさい。と言うことになります。過去の原因が現在の結果なのですから。現在親不孝されているのは、過去の親不孝の「サンゲ」と言うことです。しかし、今(現在)から親孝行をすれば、将来は親孝行が・・・
☆ 「縁起の法則」では、今の親不孝の事実を仮の現われと捉える。親と子供の出会い(因縁)の結果と考える。一瞬一瞬の親子の触れ合い、出会いを大切にする。子供の言動行動に惑わされないで対応する。感情に左右されないで接する。
☆ 諸法実相「十如是の法則」では、親不孝という行動(事実)を「エネルギーの発揮」と捉える。「いのちの躍動」として観察し、感謝して明るく接する。
三大真理をこのように簡単・単純に解説することは、不謹慎でありますが、深遠な真理の扉を開くための仮説(足がかり)としてお許しいただきたいと思います。現象の捉えかたと、行動のあり方の違いを明らかにしましたが、此の三つの「法則」は究竟すると一乗です。つまり、煎じ詰めれば同じ境地にたどり着くのです。それだけ、此の「法則」は、深遠なものなのです。