悠遊自在塾資料 07年6月 |
|||||||||||||||
|
<抜粋> 「 いい加減に生きる」 大下大圓著(講談社) ――― スピリチュアル仏教のすすめ 33 ――― 宇宙飛行士の心境と四国お遍路の真髄は同じ
P.147〜149 人殺しをする宗教などいらない なぜ人間の幸せを説く宗教が争いを起こすのでしょうか。 人殺しを強要する宗教などいりません。 宗教というものは、ひとつのガイドラインというか「枠」のようなものです。そして、えてしてその「枠」からはみ出したもの、対立したものを否定し、排斥していきがちです。神はただ一人、自分の信じるものだけが正しいとする「一神教的原理主義」は、先鋭化すればその方向にいってしまう宿命を背負っているのです。 ・・・< 中略
>・・・ 仏教は一神教のような固定した「枠」を持たない宗教と考えるからです。 もともと仏教の仏さまは「過去現在未来三千仏」ともいいます。曼荼羅には本当に多くの仏が描かれているのです。そのような、インドで興った仏教が、中国を経て日本に入ってくる。当の日本は、動植物どころか、太陽や月、風、石にいたるまで神を見る「八百万の神」を信仰する民族の国でした。もともとの日本にあったそうした「基層文化」の上に仏教が溶け込んで教えが広まっていく過程で、日本人は、自分が信じるものと他者が信じるものとの境界、自分の信仰の「枠」をなくしていったのです。 仏教は、神の教えという「枠」のなかで生きるものではありません。自分を起点として、自分の心というものに焦点を置きながら外に向かっていく教えです。
P.149〜151 「本来、東西南北はありません」 かつて、大気圏の外に出たアポロ宇宙飛行船の宇宙飛行士が、 「わたしたちのいまいる世界には、上も下も、北も南も、東も西もありません」 といったことがありました。 これをニュースで聞いたある仏教学者ははっとします。 「あれ、これは四国遍路をする人たちの笠に書いてあることじゃないか」 四国のお遍路を回る人が被る菅笠には、「本来無東西」「何処有南北」と書かれています。そう、「本来(真理には)、東西南北はありません」と書かれているのです。 じつはわたしも四国を巡礼するのに、自分の被る菅笠にそのように書いて歩きました。そのときはお遍路をすることは、西や東に向かって歩くことだから無東西なのだと思っていました。 宇宙飛行士が、無重力の宇宙空間で自分を中心に世界を見たとき、世界にはいっさい「枠」というものなんて存在しないんだ、と気づく。その心意気を、仏教は何千年にもわたって伝えようとしてきたのです。その視点に立って、ものごとを見ていきなさい、と。 だれが大気圏の外に出て見える世界をいい当てたかというと、それはお釈迦さましかいないわけです。すごいなあ、と思います。科学によって証明される、仏の教え。そう考えると仏教っておもしろいなあ、とつくづく思います。
私たち人間は、枠、枠、枠と、あらゆることに「枠」をつくりすぎてしまったのではないでしょうか。「枠」とは「壁」のことでもあります。「枠」をつくり、「壁」をつくれば、全部が見えてわかるから一見安心です。しかし、それは、ごくかぎられた狭い世界をぐるぐる回っているだけでしかない。パターン化した部分にとらわれている。まさに「バカの壁」なのです。 昔から葬儀のときに使用する四本幡などにもこの文章を書き、お棺の上に掲げます。 「迷故三界城」(こころが迷うから過去現在未来の三界は自分の住処だと思う) 「悟故十方空」(悟れば、東西南北・・・上下の十方は空相で本来存在しない) 「本来無東西」(悟りの世界では、東西という方角そのものも存在しない) 「何処有南北」(それなのにどこに南北もありえようか、存在しないのである) 仏教は、最終的には自由になることを教えていると私は思っています。「セルフ・リベレーション」(自己解放)ということばもありますが、自分で自由な世界をつくることができるのです。だれかによってマインドコントロールされるのは仏教ではありません。 巷には仏教を標榜して、マインドコントロールする団体が横行しています。肉体はこの世の物理現象に拘束されていても、こころの部分を自由にしていく。どこまで自由にできるかは、その人自身の問題であって、仏教の真髄を見つけていけばいくほど、宇宙的な自由の状態に近づけるだろう。そのために、こころの「枠」や「壁」から解き放たれること。それが、「解脱」ということなのだと思います。
P.151〜153 『死ぬ瞬間」とローマ帝国とギリシャ文化と 『死ぬ瞬間』(読売新聞)という本を書いたエリザベス・キューブラー・ロス女史という有名な方がいます。彼女はこの本のなかで、がんを告知された患者さんが、自分の死を受容していくまでの心のプロセスを明らかにしています。 死はすべての終わりではなく、人は死を成長の機会としてやがて自分らしい「生」をまっとうする。死に瀕した200人以上の方へのインタビューからそのことを明らかにしたキューブラー・ロスさんは、医学界に大きな影響を与えました。 興味深いのは、次の部分です。 彼女は、こんなふうにたとえて説明したそうです。 人間というものは蚕のようなものである。蚕は蛹になって繭をつくる。はじめは一所懸命桑を食べているが、やがて繭をつくって動かなくなる。この動かなくなった状態が人間の死(肉体の死)だ。でも、繭のなかにいる蛹、これはたましいであって、肉体が動かなくなることによって、繭を破って出てくる。出てきて、蝶々になってどこかに飛んでいく。これが死の瞬間なんだ。 そういう古いボディを脱ぎ去って、本当の自分になって、自由になって飛び立っていく。それこそ「デカセクシス」なんだ―――。
かつて、古代ローマ帝国には30万の神々がいて、異民族を破って吸収するたびに、相手の神を自分たちの神の一員に加えたといいます。そうやって吸収した民族から、さまざまな技術を学んだり、ときには異民族出身の皇帝をいただいたりしながら、歴史に残る大帝国を築いたといわれています。 古代ギリシャにも、無数の神々が住んでいました。現代につづく芸術も、文化も、哲学も、思想も、あらゆる学問も、多くが古代ギリシャに起源があります。ギリシャがなかったらわたしたちの暮らすこの世界は、まったく違った世界となっていたことでしょう。オリンポスの神々は、かたちを変えていまもなお世界中で生きているのです。 いま、一神教的な考え方、あれかこれかどちらかしか選べないという考え方では、生きるのが難しい時代になっているとわたしは思います。「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」のなかから、自分にとって本当に大切な価値を探していく、アポロ号の宇宙飛行士のように、お遍路さんのように「東西南北なし」の心意気でもって、自分が生きる道を考える。そこにこれからの時代を生きるヒントがあるように思えてなりません。 |