悠遊自在塾資料 07年3月

 

       
人生放談 <鴨宮塾長からのメール>

敬愛する悠遊自在塾の皆さまへ
  
一月、二月の悠遊自在塾を終わって、色々な思いや考えが私の身体中を駆けめぐっています。その意味では、私も忙しくしています。
 
本当の喜び、本物の歓び、本質的な悦びとは・・・どんなものなのだろう?
 
孟子曰く「心に省みて誠なりと確信できる、これこそ最大の楽しみである」
    「しかもその誠の心でつとめて他人を思いやる」
        「自分の徳を大切にし、義であることに喜びを感じていれば、
     恬淡になれる」  (尽心篇)
 
前回のメールで述べた結論です。私の目指すべき境地です。
 
<義をつらぬく>勇気をもち続けよう!・・・と、思っています。
 
☆ 3月11日は、***市「のど自慢大会」の放映日でしたね。
 この日は、私にとっては二重の喜びの日になりました。
 
 それは、この日が学生時代の仲間との勉強会が始まることになったからです。
 彼らは、私の第二の人生の原点であり、スタートの仲間たちです。
 日大芸術学部から立正大学仏教学部への転校を決意させたのも彼らでした。

 仏教への関心と興味と魅力をつくってくれました。
 彼らとの出会いが有ればこそ、現在の私があるといっても過言ではありません。
 毎日のように膝を突き合わせて「人生論」を語り合っていました。
 今も懐かしく思い出されます。
 
 四十数年ぶりに、それぞれの人生を振り返り、あらためて宇宙の真理を
 見つめ直してみたいと思っています。
 
☆ 我が家の庭は、去年青梅で買ってきた紅白二本の枝垂れ梅が咲いています。
 私が期待していたほどの咲き振りではありませんでした。
 しだれの枝は伸びたのですが、花のつき具合はイマイチでした。
 <梅に鶯>といいますが、近所の梅ノ木に<目白が三羽>、遊んでいました。
 今年生まれたばかりのひな鳥のように見えましたが、きれいな鶯色の身体で、
 目のふちは白く、目パッチリでかわいらしかったです。
 今のところ我が家の庭の手入れは、家内が一人で楽しんでいます。
 時々は孫が一緒に水掛や草取りをしていますが・・・。
 ソロソロ庭いじりの時期になるのでしょうね。
 私は高みの見物を決め込んでいますが・・・。
 
☆ 椿大神社参拝、一人でも多くの人が参加されるといいですね。
 
 今年の悠遊自在塾は、「和のこころ」で日本人らしく生きるから始まりました。
 一月は、日本人がとらえている「仏教」について・・・。
 二月は、「儒教」でしたね。
 そこで三月は、「神道」について少し勉強してみようと思いました。
 
 「和のこころ」こそ日本文化の真髄であると思います。
 日本人は、争いを好まぬ民族です。
 そのバックボーンになっていたのが「神道」なのですね。
 
 ところが日本人は、神道について知らないことが多いのではないでしょうか。
 知らないというより、判りにくいと言った方がいいかもしれませんね。
 それだけ日常生活に溶け込んでいるためなのでしょうか?
 私だけが判りにくいのでしょうか?
 皆さんはどう思いますか?
 
 資料を添付いたしますので、参考にしてみて下さい。
 
椿大神社の聖地を参拝する心構えを作る意味でも是非皆さんと勉強したいなーと、
思った次第です。
皆さまとお逢いする日を楽しみに待っております。 合掌
 
2007.3.10.     鴨宮 弘幸   拝
 
 
 
 
 
  
 

<抜粋> 「 仏教・神道・儒教 集中講座 」

 井沢元彦著(徳間書店)

 

P.121        神道は「邪な神」も祭る

 そもそも神道とは、どう定義すべきか。これについては、古くから研究され、いろいろな人がいろいろなことを言っています。しかし、あえて持論を述べるなら、神道というのは、「日本古来の神様を、日本人のやり方で祭っていく宗教」だと私は考えています。となると、今度問題になるのは、「神」とは何かということです。

 神については、江戸時代後期の有名な国学者、本居宣長の言葉を引用しましょう。   ・・・<略>・・・

 「何にまれ世の尋常(つね)ならずすぐれたる(こと)のありてかしこきもの」

 つまり、神というのは、「必ずしも人間でなくてもよく、普通では見られないきわめてすぐれた特質を持っているもの」だというのです。この場合の「すぐれた」というのは、必ずしもほかよりもよいものという意味ではありません。卓越しているものであれば悪いことでもいいのです。ですからこれは、むしろ「異常な」と言ったほうが正しいかもしれません。

 とにかく、普通のものにはない、尋常ではない特質、異常な特質を持ったもの、という意味です。

 ですから当然、神の中には、いい神もあれば悪い神もあるし、ヤマトタケルのようにもとは人間だった人格神もあれば、千年の歳を経た杉の樹とか、長年人々に水を与え続けている川などが神となったものもいます。そうした「神」を祭るのが神道なのです。   ・・・<略>・・・

 

P.123

 日本の神道は、多神教ですから、複数の神を認めます。そして、その中には「邪なる神」もいるのです。邪なる神、つまり「邪神」は祭ってはいけないというのが普通の考え方です。しかし日本の神道では、むしろ祭らなければいけないのです。

 キリスト教的考え方では、邪な力を持ったもの、つまり悪魔は、退治すべきものです。しかし神道では、そうしたものを退治するのではなく、むしろ祭って、なだめることによって、善なる神に転化させようと考えます。それは、それができるという信仰があるからです。

 その邪なるものを祭った典型が「怨霊神」です。怨霊神というのは、この世に尽きせぬ恨みを抱いて死んだ者の霊を神として祭ったものです。

 尽きせぬ恨みを抱いて死ぬと、その恨みが、現世に対してさまざまな災厄をもたらします。災厄というのは、飢饉や疫病、不作など、いわゆる天災と呼ばれるものが主ですが、それだけではなく、戦争もそうしたものの一つだと考えられていました。戦争というのは、人と人、あるいは国と国との諍いによって起こりますから、今では人災だとされています。しかし昔は、悪霊がそそのかすことによって、戦争が起こると考えられていました。すべての災厄は、悪神のしわざであると考えられていたのです。

 悪霊神の代表は、菅原道真、いわゆる天神さまです。菅原道真は、平安時代に右大臣まで上り詰めた実在の貴族です。彼は何の罪もないのに、藤原氏に陥れられ、左遷された先で憤死を遂げます。するとその後、宮中に落雷があったり、道真を追放した藤原氏の主立った連中が奇怪な死を遂げたりと、都に異変が起こったため、道真を怨霊神として祭り、その霊を慰めたのです。神としての道真は、仏教風の言い方では「天満自在天」、神道的には「天満宮」と呼ばれます。ちなみに、天満宮や天神の「天」は、天国という意味の「天」ではなく、物理的な「天」、つまり「空」に住む神様という意味です。

 このように、自分を陥れた人間に対して祟りをなすような邪神も、丁寧にお祭りしてなだめれば善神に転化するという考え方が、神道にはもともとあったのです。

 

P.127

 悪霊であろうと、悪霊が化した悪神であろうと、とにかく丁重にお祭すれば、それは機嫌を直して善なる神に転化するというのが神道です。ですから、日本の神道は、徹底的な性善説だという学者もいるぐらいです。

 まとめると、神道がわかりにくいのは、基本的な教義が確立されず、神の定義もあいまいだからです。また、具体的にどう信仰すべきかということもきちんと決められているとは言えません。お祭りの仕方は、のちに神社神道や国家神道が発達する中で、形式的にはきちんと決まっていきますが、それはあくまでも後世の話です。できたころの神道は、非常につかみどころのないものだったのです。

 

P.138     洗っても消えない汚れ「穢れ(けが)」の正体を探ると神道が見えてくる

 日本人は、基本的に分析的なことを嫌います。自分たちの宗教はこういうものだと把握しなければならないとも思わないし、把握するためには分析しなければならないとも思いません。それはもうあるがままでいいじゃないか、と考えます。

 この「あるがまま」というのも、神道からきている考え方です。要するに、自然のままにしていれば世の中は丸くおさまるのに、人間がよけいなことをするから、自然が崩れておかしくなるのだという考え方です。

 そうしたことを頭において『古事記』を読んでみると、少しずつ神道というものが見えてきます。まず特徴的なことは、神道の神は、穢れを極端に嫌うということです。

 穢れというのは、単なる汚れではありません。  ・・・<略>・・・

簡単に定義すると、穢れとは、「諸悪の根源であり、精神的な汚れでもある」ということになります。

 汚れというのは、基本的に落とすことのできるものです。例えば手が汚れても、石鹸などで洗えば、あるいはきちんと消毒すれば、100%は無理でも、9999%は汚れを除去したり、滅菌・殺菌することができます。ところが穢れというものは、宗教的概念ですから、洗浄や消毒では消えません。

 では、穢れを取り除くには、どうすればいいのでしょう。穢れを取り除くには、「禊(みそぎ)」という宗教的儀礼を行わなければなりません。禊というのは、具体的には、川でも海でもいいのですが、きれいな水の中に入り、体を洗い、手や口をゆすぐことです。そうすれば、穢れは取り除かれると考えます。

 神は、不浄や穢れを極端に嫌うので、そうしたものがついたら、必ず祓(はら)わなければなりません。この「祓う」という言葉も、実は穢れに対するものです。一番いい穢れの消し方は禊ですが、次は祓いなのです。

 「祓い」というのは、今も神社などで「お祓い」と言って行われていますが、榊(さかき)のような清浄なもので、吹き払うようにして穢れを取り除くことです。

 先ほど、穢れは諸悪の根源だと言いましたが、具体的にはどのようなものを指すのかというと、まず「死の穢れ」があります。人間が死ぬと、そこに放射能のように穢れが発生します。その穢れに触れると、魂が穢れて大きな不幸を招きます。

 ここで重要なことは、穢れは移るということです。穢れを持った人がそのまま移動すると、穢れはまるで伝染病のように、その人に触れた人間に移ってしまいます。これを「触穢(しょくえ)」と言います。  ・・・<略>・・・

 

P142   

もともと穢れには実体がありませんから、これは信仰と言っていいと思います。しかし、いくら科学的に実体がなくても、それが存在していると信じている人たちは影響を受けます。これは神と同じです。神もその存在は物理的には証明できませんが、それを信じている人は畏れたり、そのために命を投げ出したりします。穢れもそうした宗教的概念なのです。

 日本の神が、なぜこれほどまでに穢れを嫌ったのかはわかりません。

 しかし、あえて言うならば、日本人というのは本来、穢れていないもの、汚れていないものを一番すばらしいものと考えたからではないでしょうか。日本ではよく「真善美」ということが言われます。穢れなきものこそ真実であり、美しきものであり、正しきものであるという考え方がもっとも日本にはあり、それをまさに汚すものとして「穢れ」が考えられたのだと思います。

 その穢れの中で、最も穢れたものが「死」です。死というのは、太陽の光を侵す日蝕のように、人間の生命の輝きを侵すものという発想があります。だからこそ日本人は穢れを極端に嫌うようになったのではないでしょうか。

 この「穢れ」という宗教的概念は、のちに日本人の心に大きな影響を与えていきます。  ・・・<略>・・・

 

P144 〜 

穢れということがわかると、日本神道独特の怨霊神というものも見えてきます。怨霊というのは穢れたものです。正しいことはきれいなことであり、きれいなことは正しいことである、と考えるとわかりやすいと思いますが、怨念は人に対する恨み、ねたみ、憎しみですから、明らかに清く正しいものに反するものです。そうした穢れたものを放っておいたら大変なことになってしまいます。

 しかし、日本人はそれを神の力によって倒そうとは考えません。むしろそれをなだめることによって穢れを取り除き、清らかな善神に変えていこうと考えます。こうした発想が出てくるのも、もとをただせば、穢れが諸悪の根源であるという考え方があるからです。

   井沢 元彦 著 「仏教・神道・儒教 集中講座」より抜粋

 


◇塾生より 塾長への返信メール
 塾長さんの3月度資料、どうもありがとうございました。じっくり拝見させていただきます。

 「随所に主たれ」という言葉(経句)がありますが、「主」という字の「`」はローソクの炎を指し、「王」は蝋燭台を表していると何かの冊子で読んだことを思い出しました。
 まさに、いま・ここ・自分が主となって、正法・真理に沿った生き方を求めていくことが大事なのですね。業務多忙とはいえ、悠遊自在塾での求道の「`」(火種)は消えておりません!

 今日は、塾長さん、リーヴス船長さんのメールに触発されて、思わず指が進んでしまいました。

 明日は**の委員会です。午後からまた仕事(勉強)しないと・・・。

 では亦。合掌

 K・K拝