悠遊自在塾                     人生放談 2007年2月 <鴨宮塾長メール>


悠遊自在塾の皆さまへ
 
第32回の悠遊自在塾では「武士道の精神」について勉強をしました。
日本人に培われた「武士道精神」とは、江戸時代に確立したものでしたね。
そして、孟子の説いた「仁・義・礼・智」の四つの徳目を基本精神にしていましたが、それも、朱子(朱熹)がまとめた宋学(朱子学)に基づいたものであったことを知りました。
 
私は、徳間書店の「中国の思想 第3巻『孟子』」(今里 禎訳)を読んで、下記のことを学びました。当日は言わなかったのですが・・・。
 
 朱子は『孟子』を『論語』『大学』『中庸』と一緒にして四書と名づけ、儒学入門の必読書とした。孟子は朱子によって復活させられた。孟子は孔子の正統を継ぐものとして孔孟と並称され、亜聖と尊ばれ、『孟子』の書はその後の中国、朝鮮、日本において教養の根本となった。しかし、それは孟子にとってはたして幸福なことだったろうか。朱子学の体系の中に置かれ、朱子学的解釈を施された『孟子』は、あの戦闘的な戦国の思想家の面目はほとんど失われ、『理気二元論』という神秘的な装いをつけて現れたのである。
 そしてそれが官許の学となるに及んで、仁義も性善も修養も、みな道学者流に変貌させられた。日本人の、道学者孟子という「常識」を形づくったのも、この朱子学的な『孟子』だったのである。日本に『孟子』が初めて渡来したのは奈良朝の頃であると推定されているが、広く読まれるようになったのは、江戸時代、幕府によって朱子学が官許の学とされてからである。それ以来、『孟子』は良くも悪くも日本人の教養を構成する大きな要素となった。  <P.33>
 
 
ここで言う「道学者」とは、道理・道徳を重んじるあまり世事に暗かったり、
人情を無視したりする偏屈な人のことのようです。「道学先生」というと、道学者を軽蔑したり、からかったりして呼ぶ言葉でもあるようです。
 
「道学」の意味には、
@ 人の歩むべき道と学問。 
A 老子・荘子などの道家の学。
B 宋代、二程子・朱子などにより提唱された新儒教の宋学・朱子学のこと。
C 仏教の教理に関する学問のこと。  
D 石門心学の別称などがあるようです。
上記の「道学者流に変貌された」というのは、Bにあたると思われます。
 
つまり、孟子の思想というよりも朱子の思想に基づいた「武士道精神」が、日本の文化に定着したということになりますね。
 
朱子学については、2005.09.06.のメール「朱子学と陽明学の違い」を再読してみて下さい。
同じ儒教(儒学)である、朱子学と陽明学の違いを知ることで「仁義礼智」の生き方に天地ほどの違いがあるのではないかと思います。
 
簡単にいえば、朱子学では「かくあるべし」と断定的に指示することになり、自分の外にあるもの(真理とか法則)に従うことになる。
これに対して陽明学では「自分の判断や行動の基準を外の規範に求めるものではない」としている。
 
このたび『孟子』を学んでみて、「仁」とは、かわいそうだと思う心であり、「義」とは、悪を恥じ憎む心であり、「礼」とは、譲りあいの心であり、「智」とは、善悪を判断する心であると知りました。
 
『孟子』の公孫丑編(コウソンチュウヘン)に「四瑞の心」として出ていました。
   惻隠(ソクイン)の心なきは、人にあらざるなり。
   羞悪(シュウオ)の心なきは、人にあらざるなり。
   辞譲(ジジョウ)の心なきは、人にあらざるなり。
   是非(ゼヒ)の心なきは、人にあらざるなり。
  
     惻隠の心は、仁の瑞なり。羞悪の心は、義の瑞なり。
   辞譲の心は、礼の瑞なり。是非の心は、智の瑞なり。
   人のこの四瑞あるや、なおその四体あるがごとし。  <P.112>
 
かわいそうだと思う心は、仁の芽生えである。悪を恥じ憎む心は、義の芽生えである。譲りあいの心は、礼の芽生えである。善悪を判断する心は、智の芽生えである。人間は生まれながらに手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えている。と言うことなのですね。
 
☆ 話はチョット変わりますが・・・。
『孟子』を読んだのは初めてだったのですが、私にとっては思いもかけぬ収穫がありました。
  
それは、『去る者は追わず、来たる者は拒まず』 の一句です。
 
収穫とは、それが、孟子の言葉であったという発見の喜びです。
 
四十数年間、一求道者としての道を歩み始めて以来、私の<座右の銘>としてきた言葉だったからです。
 
多くの人との楽しく、有意義な出会いの数々・・・。
そして、ポツリポツリと離れていく人びと・・・。
そして亦、新しい人との出会い・・・。
 
孟子の言葉とも知らず、自分一人、心のなかでつぶやき続けて来た言葉が、『去る者は追わず、来たる者は拒まず』の一句でした。
 
寂しさをまぎらすために・・・。
プライドを保つために・・・。
必至になって自分を慰めるために使っていたのでしょうね。
 
今日までの私の人生を振り返ってみると、人との出会いを最大の楽しみにしてきたのではないか、という思いに至りました。常に人と交わり、語り合い、心かよわせることを願っていたのでは、と・・・。
こんな思いが心をかすめた時、次の言葉が目に飛び込んできました。
  
     孟子曰く、「万物みなわれに備わる。身に反(カエリ)みて誠ならば、
        楽しみこれより大なるはなし。」 (尽心篇)
     
     あらゆる道理はすべてわが心に備わっている。心に省みて
     誠なりと確信できる、これこそ最大の楽しみである。
 

自分の思考軸が確立できれば、「それが最大の楽しみなのだ!」と、言える自分に早くなりたいな―――と思う、今日この頃です。
自分の外に楽しみを求めるのではなく、自分自身の中に楽しみを発見できる人になりたいものです。