悠遊自在塾資料 07年2月 (2) |
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<抜粋> 「和のこころ」で日本人らしく生きる本 KAWADE夢文庫 夢プロジェクト[編] 五章 武士<もののふ>の心 勇猛なだけ、腕が立つだけでは 功名は立てられない。 乱世に輝いた 猛き勇者の心魂に学ぶ生き様―――
P. 154 義 <ぎ> ☆ 裏切り、謀略などの不義を死ぬほど恥じる生き方 「もののふ」つまり「武士」がこの世に登場するのは、平安の初期である。そのころの武士は、貴族に雇われる護衛にすぎなかった。それらが土地を開発して領主の身分になってからも、依然として、貴族のガードマンという地位を脱することはできなかった。朝廷が各地に配置した国司が、何かと理由をつけて武士たちの所領をおびやかしたため、武士たちとしては、自分たちの所領を藤原氏などの有力貴族に寄進して、その土地の管理者になるという方法を取るしかなかったわけだ。 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、諸国における国司の権力を有名無力化し、武士たちの所領の安全を確保する大改革をなした点で、まさに武家社会の礎を築いた人物といえる。 とはいえ、武士道なるものの確立は、頼朝の時代からさらに四〇〇余年を待たなくてはならない。つまり、われわれ現代人にもなじみのある武士道は、武家政権の樹立から南北朝、戦国というふたつの乱世を経て、江戸時代になって初めて成立したのである。 武士道の基本精神は、儒学にある。中国の戦国時代に生きた孟子が、孔子の開いた儒教を発展させて、仁義礼智の四つの徳目を儒教の中心思想にすえた。江戸時代に生まれた武士道は、その孟子の思想を規範として生まれたものだ。 南部藩士の子として生まれた農業経済学者・教育学者の新渡戸稲造は、その著書『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「大和魂」を武士道の根本精神としている。 新渡戸稲造によれば、「義」は、武士道における最重要の徳目である。新渡戸の『武士道』は、幕末の尊皇攘夷派の武士・真木泉守(まきいずみのかみ)の言葉を引用して、そのことを示している。 「士(武士)の重んずるところは節義なり。節義はたとへていはば人に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば無骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」 ここでいう節義は、孟子の唱えた「義」と解釈することができる。つまり、真木泉守は、「人間のおこなうべき道理、筋道」こそが武士の守るべき第一の徳であるといっているのだ。興味深いのは、「無骨」(礼儀作法をわきまえないこと)であっても、「不調法」(剣術や学芸に劣っていること)であっても、「義」をわきまえてさえいれば、武士と呼ぶに足りるといいきっている点だ。 この一点に、江戸時代の武士道が、戦国乱世の教訓を深く省察している様子がうかがえる。武士道は、盟約の無視、裏切り、肉親謀殺の下克上がまかり通った戦国乱世の不義を徹底的に排除したところにつくられている。そうした反戦国時代的な「義」の精神によって、江戸三〇〇年の泰平が保たれたといっても過言ではない。
P. 156 勇 <ゆう> ☆ 不義を嫌い、道理と筋をわきまえた勇気 武士道における「勇」とは何か? 新渡戸稲造の『武士道』は、それを徳川光圀(みつくに)の言葉によって説明している。徳川光圀とは、われわれ現代人が水戸黄門の名で親しんでいる水戸藩第二代藩主のことだ。 「一命を軽んずるは士(武士)の職分なれば、さして珍しからぬ事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節になる事もあり。之を死すべきときに死し、生くべき時に生くといふなり」 戊辰戦争において、会津藩の白虎隊は半数が戦死、残る半数は飯盛山で自決した。いっぽう、江戸開城後も函館の五稜郭に立てこもって官軍に抗戦した榎本武揚は、薩摩藩の黒田清隆の説得に応じて降伏した。徳川光圀の言葉に照らすならば、白虎隊の全滅は血気の勇で、榎本武揚の降伏は賢明な選択ということになる。実際、榎本は、いったんは投獄されたものの、その賢明さを評価されて明治政府の枢要に迎えられている。 もともと、武士の世界には「匹夫の勇」という言葉があった。思慮分別がなく、ひたすら血気にはやる者は、しょせん小者であると見なされたのだ。兵法研究者には、桶狭間の合戦において、先頭をきって今川義元の陣に突進した織田信長を「匹夫の勇」と見なし、兵法者失格と見る向きも多い。 武士道における「勇」は、道理をわきまえた、筋道の立った勇気でなければならず、その意味で、「義」と両輪の関係にある。儒教の開祖・孔子は、「義を見てせざるは勇なきなり」の言葉を残している。儒教精神を汲み取った武士道において、「勇」は「義」とほとんど同義なのである。 その意味で、新渡戸の『武士道』は、「敵に塩を送る」というコトワザの語源となった上杉謙信の行動を、武士道における「勇」の鏡としている。 上杉謙信と武田信玄は、信州をめぐって十四年にわたって戦った。その戦いのさなか、武田信玄は、東海道の北条氏に頼っていた塩の供給を断たれた。それによって、山間の甲州(山梨県)を領地とする武田氏は、塩を確保する手段をうしなってしまった。そのことを知った謙信が、宿敵の武田信玄に塩を送ったのである。 上杉謙信の養子・景勝は、謙信の土くさい「義」を受け継いだ人だった。関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉の同盟者として石田三成と結びながらも、上杉家独自の道を歩むという姿勢をつらぬいた。その一貫した姿勢を家康に認められ、会津一二〇万石の上杉家は、戦後、米沢三〇万石へ減封されただけで滅亡をまぬがれたのだ。
P. 159 仁 <じん> ☆ 功名に執着せず、相手を尊重して生きる 儒教の根幹思想のひとつである「仁」について、孟子は、こういっている。 「不仁にして国を得る者は、之有り、不仁にして天下を得るものは、未だ之有らざるなり」 ―― 「仁」をもたずして他国との戦いに勝つ人はいるが、「仁」をもたずして天下を統一した人は、いまだにない。 「仁」は、ごくわかりやすくいうと「おもいやり」「あわれみ」のことだ。この精神は、武士道の中では「武士の情け」という言葉によって表されている。 これは、武士の世が終わっても、しぶとく生き残り続けた言葉である。たとえば「借金の返済は、武士の情けで、あと一ヶ月だけ待ってあげよう」などという。このように、立場が弱いものに対するある種の寛大なあつかいを意味する言葉として使われている。 その使い方じたいは、「武士の情け」の原点からそれほどはずれてはいない。だが、本来の「武士の情け」には、はるかに叙情的な響きがあった。 新渡戸の『武士道』によれば、それをもっともシンボリックに表しているのが、能の『敦盛』の題材にもなった、一ノ谷の合戦における熊谷直実(くまがいなおざね)と平敦盛との一件である。 武蔵熊谷郷の武人・熊谷直実は、源平合戦の趨勢を決した一ノ谷の決戦のさなか、沖の平氏の船に乗り遅れた一人の武将に一騎打ちを挑み、自分から名のりをあげ、かつ相手の名を問うた。だが、相手は名のらない。自分が平家一門の平敦盛であることを知られれば、その首を狙って源氏の雑兵が殺到することになるからだ。いにしえの武将は、雑兵(身分の低い兵卒)に首を取られることをもっとも嫌った。 剛勇の熊谷は、名のらぬ相手を組み伏せ、その兜をはぎ取った。そこに現れたのは、白い肌をした少年の顔だった。大きな衝撃を受けた熊谷は、「あなたを殺す気はない。さあ、どこかへ逃げなさい」と、せわしく逃亡をうながす。だが、敦盛は、「はやく、この首を斬れ」と叫び続ける。折しも、味方の源氏の兵が殺到する足音が迫ってきた。 そこで、熊谷は、悲壮な決意をする。 「名もなき雑兵の手にかけるよりは、この熊谷直実が手にかけて、のちの供養をも引き受けよう」 そうして敦盛の首を斬った熊谷直実は、凱旋したのちに武士の身分を捨てて僧となり、余生を念仏行脚にささげた―――。 これは史実ではないらしい。しかし、この物語に「武士の情け」の源流といえるものが流れていることだけはまちがいないだろう。 |