悠遊自在塾資料 200606

 

抜粋   下村 満子編著「ありがとう おかげさま」(海竜社)

 

P74 75    指南役 ■ 村上和雄 ■

☆ 今の科学ではわからない「サムシング・グレート」の存在

日本人の大部分は、「宗教は?」と聞かれると、「特定の宗教はなし」と答えるでしょう。しかし、ほとんどの人は、「無宗教」と言われると抵抗感を感じるのではないでしょうか。

だから、「単なる偶然の出会いとは思えない」とか「何かに背中を押されて、今の仕事を始めたような気がする」などというセリフが出てくるのだと思います。

私は、その何かを表現するために、十年ぐらい前から「サムシング・クレート(Something great)」という言葉を使い始めました。サムシングは、今の現代科学ではほとんどわからないような、偉大な何かを表す言葉として最適だと思っているのです。

これが欧米人ならば、サムシング・グレートとは言わないでしょう。彼らはおそらく、「ザ・グレート」とか「ザ・グレーテスト」と呼ぶのではないでしょうか。すなわち、特定のイメージが確立した「わが神」なのです。

ですから、「サムシング」という言葉は、非常に日本的な表現だと私は思っているのです。サムシングは、太陽、地球、ご先祖など何でもいいのです。

つまり、そういうもののおかげで、私たちは生かされていますし、そういうものがなければ、まず遺伝子暗号は書き込めません。そして、その書き込んだ遺伝子暗号どおりに、見事な調和のもとでしか動けないのです。

しかし、なかには「神も仏もあるものか」と思っている人がいらっしゃるかもしれません。私はそういう人に、「信じるか信じないかにかかわらず、あなたの中にもサムシング・グレートの働きがあります。そうでなければ、あなたの遺伝子暗号ができるわけがないし、暗号どおりに働くわけがないのです」と申し上げたいと思います。

サムシング・グレートはいったい何かというのは、おそらく人類にとっての永遠のテーマです。そこで私なりに簡単に定義してみました。

たとえば、私には両親がいました。両親にはやはり両親がいました。そうやってさかのぼっていきますと、はるか昔の祖先を産んだ両親のようなものがいなければ、その祖先は生まれていなかったことになります。

そうした、すべての生きものをつくった親のようなものを、そして、最初から現在、未来にわたって働いている何らかの不思議な力を、私はサムシング・グレートと呼びたいと思っているのです。

 


P90 91    指南役 ■ 村上和雄 ■

 ☆ 宗教は「こころのサイエンス」と語るダライ・ラマ

たしかに今まで、多くの宗教家が、サムシング・グレートのメッセイジを説いてこられました。ブッダもキリストも、慈悲や愛など、すばらしいことを説いています。しかし、二十一世紀の今、宗教だけでは解決できない問題が発生しているのではないでしょうか。

やはり、科学者がサムシング・グレートについて語る時代がきている、私にはそう思えて仕方がないのです。そこで、私は、及ばずながら、そのメッセンジャーの役を果たしたいと考えているのです。

こうしたことを考えていますと、やはりサムシング・グレートからのメッセ維持なのでしょうか、いろいろと不思議なことが起こります。

たとえば、この一年半ぐらいのあいだに、私は三回もダライ・ラマにお目にかかることができました。共通のテーマは「仏教と科学との対話」でした。ダライ・ラマという方はほんとうにすばらしい方で、威張るということがまったくありません。

私は、じつは威張る人がいちばん嫌いです。威張る人に会うと、その人の人格もたいしたことはないという評価を下すのを常としています。ですから、ダライ・ラマのことはすっかり尊敬してしまいました。しかも、とても明るいのです。一番長く会ったのは、昨年十月のことでした。一週間続けて、「科学と宗教の対話」に出席しました。

というわけで、ダライ・ラマという人物は、朝の九時から午後五時まで、一週間みっちりと対話をするという人だったのです。宗教家としてはまれにみる人物であることが、この一点だけでもわかっていただけると思います。


私はまず、「なぜ、宗教家が科学者と対話をするのですか」と聞きました。そしたら、「仏教はこころのサイエンスです」という、格好いい答えが返ってきました。そして、「だから、自分たちは、最先端科学から学びます。しかし、科学者も、仏教の深い深いこころの真理を学んでください」と言われました。

ですから、この一週間の対話は私にとっても有意義な期間になりました。何より印象的だったのは、「科学者と対話をしていて、仏典の中のある箇所が、今の現代科学から見て、どう考えてもおかしいというときにはどうしますか」という質問に対しての答えを聞いたときのことです。

彼はなんと、「仏典のほうを変えたい」とおっしゃったのです。

P92 93    指南役 ■ 村上和雄 ■

☆ ブッだの教えは、自分で考えなさいということ

 私は「仏典を変えることを検討します」という答えにびっくりしました。そして、「なぜ変えられるのですか」とさらに質問しました。すると、こう答えられました。

「仏典はたしかにすばらしい。自分は百パーセント、ブッだの弟子です。しかし、教典は、ブッだが直接書かれたものではありません。弟子が書いたものです。

それはたしかにすばらしいものですが、二千年も以前にかかれたものに一点の間違いもないということはありえません。自分も、読んでいておかしいところがあると思っています」

 この率直なコメントに、私はびっくりもし、そして深い感動を覚えたのでした。どうして、ダライ・ラマはそのような思い切ったコメントができるのでしょう。ジャンヌ・ダルクの魔女伝説を否定し、地球が丸いことを認めるのに長い時間がかかったキリスト教との違いはどこにあるのでしょう。

 その理由は、ブッだが同じことをおっしゃっているからだとダライ・ラマはおっしゃっています。

 釈尊は、「自分の教えを盲目的に信じてはいけない」とおっしゃったそうです。「盲目的に信じるのはいけない。自分の頭でよく考えて分析して、正しいと思ったら信じなさい」という釈尊の言葉を、今まで私は聞いたことがありませんでした。

 ダライ・ラマは、釈尊の言葉を引いて、「たから、私たちには自由がある」とおっしゃいました。これはまさに、私たち科学者の立場とピッタリと一致します。

 ダライ・ラマは、そういう観点で「科学者との対話」を続けてこられたのです。そこで私がお話したことは、生命科学の現場から見た生命の不思議ということや生命の可能性などについてでした。

 こうしたことが、宗教の場と科学の場でお互いに関連づけられる命題として語られ始めたのです。私がそのことに大変な興奮を覚えたのは、これが単なる科学の問題にとどまらないだろうと思ったからです。私たちの生き方の問題、教育の問題などに還元できると思うのです。

 ダライ・ラマには来年(二〇〇六年)もお会いする約束をしていますので、またお話をするのを楽しみにしているところです。