悠遊自在塾資料 20065

抜粋     柳澤桂子著「いのちの日記」(小学館)より

 

P81 P83

 宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。それは、生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。

 それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるのだろうか。爬虫類(ワニなど)になると、すでに自己意識のあることは外から見ていてあきらかだろう。

 いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに人格神(一神教)の認識に進化する。そこで、人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、その人格神の超人的能力を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。

 

しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して“神なき神の時代”に入ることができると、私は考える。つまり、私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。もはや何かに頼らなければ生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らずに、神の前に、神とともに生きるのである。

 

宗教学では、このように信仰が進化するという考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうると信じている。

 

しかし、アリエティやウィルバーが述べているように、私たちは「一次過程」の認識にもどるのではない。「二次過程」の認識を超越して、よりスピリチュアル(霊的)な精神作用を生み出す「三次過程」の認識に進化しなければならない。

 もはや特定の宗派や教祖に頼っても必ずしも救いが得られるわけではない・・・そんな“神なき時代”において、「悟り」という至高体験をえられる境地にたどり着くためには、私たち自身の力で、自らのこころを耕し続けるしかない。たとえば、読書をし、思索を深め、音楽や絵画などの優れた芸術作品に数多く触れることも大切だろう。

 

-------- たとえば、あなたが散歩中であらゆる雑念やストレスから解放されているとき、なにげなく野の花を目にして、その清らかでつつましい美しさに感動したことはないだろうか? そのとき、とても純粋な気持ちになり、何かしら満足感に包まれたりしなかっただろうか? ではいったい、道端にひっそりと咲く野の花の何が、あなたのこころを捉え、それほどまでに幸せな心地にしたのだろうか?

 そこには、すくなくとも私たちを苦しめる我欲は働いていない。たとえば仏教が煩悩五欲と見なす食欲・色欲・睡眠欲・金銭欲・名誉欲などが、野の花の清らかさに感動を誘うことはあまりない。この感動は、私たちが芸術作品に触れたときに誘発される情感と同質のものである。