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『人生と陽明学』安岡 正篤著(PHP文庫)≪抜粋≫
『 啾 啾 吟 』 王 陽明 (P.71~75)
知者ははず 仁(者)は憂えず 君ぞしてふるや
歩にせて すれば 天によりて判下る に非ず
之を用ふれば則ち行き つれば則ち休す
此の 虚浮かぶ 丈夫は落々 天地をぐ
に顧みて束縛 窮囚の如くならんや 千金の珠 鳥雀を弾じ
土を掘るに何ぞを用ふるをはさん
君見ずや東家の 虎患を防ぐを 虎夜室に入って其の頭を噛む
西家の児童は虎をらず 竿をって虎をこと 牛を駆るが如し
痴人にりて遂に食を廃し 愚者をれて先ず投ず
人生命に達すれば に啾啾
註 1 憂うる様。
2 本によっては眉雙(眉ふたつながら)ともする。
3 来は助動詞で意味なし。
4 おけばとも読む。
5 ひろびろと霞んだ流れの景色。
6 無人の舟はそれこそ流れのままに自由自在である。もしそれにぶち当てられても、人がおらぬ故喧嘩にもならぬ。よって虚心坦懐、無私無欲に行うを虚舟に譬える(荘子や淮南子に出ず)。
7 名剣のこと。
8 灑は洗う、落はおおまか。汚れを洗ってさっぱりした様。
知者はなんの惑うところもない。仁者はなんの憂うるところもない。君はどうしてくよくよと眉をしかめておるのか。足にまかせて歩いていけば、みな立派な道だ。なにも道が良いとか悪いとか、くよくよすることはない。大きな目で見ておれば、天がちゃんと審判をする。ああだこうだと人の謀るものではない。
ご用があるなら行って働きましょう。なければ休まして貰おう。この身は縹渺たる流れの中に浮かぶ無人の舟の如きものである。達人は虚を以って世に遊ぶというが、虚心坦懐、なんの私利私欲も持たなければ、相手と衝突しても厄介なことにはならぬ。胸に一物があるからいざこざが起こる。
男たる者その虚舟の如くおおらかで、屈託なく、宇宙大に生きるべきである。あれこれと物に束縛されて、まるで牢屋にぶち込まれて、手も足も出せぬ囚人の様になって暮らす、そういう暮らしは男たるもののなすべきことではない。格子なき牢獄という言葉が終戦後はやったが、自ら格子なき牢獄にとらわれておる人間が随分おる。
あたら人間、大丈夫として生まれながら、千金の珠で鳥雀を弾ずる様なことをすべきではない。土を掘るのに?鏤の名剣を使うような馬鹿はいまい。この大事な身体、この大事な自己というものは、つまらぬ問題に無残に使うべきではない。どうも人間はつまらぬ事にこだわり過ぎて、何て馬鹿なことをやって、やきもきしているのだ。
ごらんなさい、隣家の老人は虎が出てくるのを心配して、それを防ぐのにきゅうきゅうとしておる。処が或る晩、虎がのっそり室に入って来て、その老人の首を噛み切ってしまった。
それに反して隣の子供は、虎というものを全く知らぬ。だから虎が入ってきても牛か犬の大きなのくらいに思って、竿をとってしっしっと追いい立てると、虎はのそのそと去ってしまった。全く無心の致すところである。
これと反対の意味の熟語に黔驢(けんろ)というのがある。昔黔という地に虎が沢山おった。そこへ驢馬が輸入されて来たが、虎というものを見たことがないので、虎の恐ろしさを知らぬ。虎も見たことのないロバをうさん臭く見ておった。そこで何もしなければよかったのに、なまじ虎を蹴ってしまった。そこで何だこんな奴!とすぐとびかかってがっぷりやってしまった。そこで柄にもない奴が、余計なちょっかいを出すことを黔驢(けんろ)という。まあ、この場合は違いますが、面白い。
馬鹿がおって、或る時のどがつまった。それからというものは飯を食うこともやめてしまった。所謂 羹(あつもり)に懲りて膾(なます)を吹く類である。愚かなるものは溺れることを恐れて、溺れまい溺れまいとして却って自分から溺れてしまう。愚かなるもののよくやることです。
人生、命に達すれば自らさっぱりと又おおらかになる。徒に誰が言ったとか、言われはせぬかとか、いうようなことをガチャガチャ言うておるが、そういうけちくさいことはさらりと捨てて、天を信じ、天にまかせて、虚心坦懐、無心になって、自由自在にやっていけば良いのだ。
ここに来るのには大変ですが、一吟一詠それだけで胸がすっとして、心が大きくなる。飯もうまくなり、人も憎めなくなる。この頃の日本人は何とけちくさいことでしょう。いや、そんなこともサラリと棄てましょう。
『人生と陽明学』 安岡 正篤著(PHP文庫)
≪抜粋≫
P.71 〜 P.75
悠遊自在塾資料
≪抜粋≫ 安岡 正篤著『人生と陽明学』(PHP文庫)より
P.185 : 根本真実の教化は徳教なり。
口にては教えずして、我が身を立て道を行ひて、
人の自ら変化するを徳教といふ。 〈 中江 藤樹 〉
P.197 :
科学というものは物質の面から、自然的存在の面から取り組んだものである。最初のうちは科学の発見するものと、哲学やこれを信じ体得するところの宗教と矛盾するものが多かった。
ところがだんだん科学が天の明命、自然の法則というものに深く入ってゆくうちに、両方が大分近づいて来たというか、次第に一致するようになって来た。近頃では間の抜けたあまり勉強しない哲学者や宗教家よりも、真剣に物質を研究する科学者の方が天の明命を顧みて本当の哲学、信仰に入って来ておるものが少なくない。これは現代の面白い特徴です。
P.199 :
藤樹先生は又人間というものを反省考察されて、人間の人間たる所以、人心の最も大事な要素・作用は愛と敬にあるし言われておる。これは今日われわれが学問をし、実践をしてゆく上に於いても、やはり大事な根本原理でありますが、これが発展して先生の孝の学問・信念になったのであります。
中でも先生は特に敬というものを重んぜられた。
愛は普遍的なもので、人間ほど発達しておらぬが、動物も持っておる。しかし敬は「天地の為に心を立つ」という造化の高次の働きであって、人間に到ってはじめて発達してきた心である。これは人間が進歩向上しようとする所に生ずる心であって、人間が理想に向かって少しでも進歩向上しようと思えば、必ず敬の心が湧く。湧けば又進歩向上することが出来る。これあるによって人間は人間たり得るのであります。
P.202 : 敬という心は、言い換えれば少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心であります。従ってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥ずる心になる。
省みて自ら懼れ、自ら慎み、自ら戒めてゆく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬れ、それに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥ずる、これが敬の心であります。
少しでも高きもの、尊きものに近づき従ってゆこう、仏・菩薩・聖賢を拝みまつろう、ということが建前になると、これは宗教になる。
省みて、恥じ、懼れ、慎み、戒めるということが建前になると、道徳になる。
従って宗教という時には、道徳はその中にあるし、道徳という時には宗教がその中にある。決して別々のものではない。一体のものの表現を異にするだけに過ぎない。よく宗教は道徳と違うとか、いや、道徳では駄目だとか、いうようなことを申しますが、これは不徹底な、或いは誤解された言葉でありまして、東洋では等しくこれを道と言う。道の現れ方によってあるいは道徳となり宗教となる。
P.203 : 敬とはお互いが感心し合うこと
そこで人間が人間に反った時の一番大事な内容は何かと言うと、心に愛・敬を持つということです。特に敬が大事であります。
『論語』に「敬せずんば何を以ってか別たんや」とあります。単なる愛だけで、敬がなければ動物と変わらない。この頃の夫婦、男女関係を見ていると、愛ということはしきりに論ずるけれども、敬するということは言わぬ。男女関係・夫婦関係に尊敬し合うということがなくなってきました。男女関係・夫婦関係の頽(くず)れる所以であります。愛するだけであるから、しばらくすると〈あら〉が見えて来て、どうしても駄目になりがちです。
敬があるということはお互い感心し合うということです。
夫婦はお互い感心し合わなければいけない。ということは単なる肉体関係・功利的関係では駄目だということです。純人間的関係、つまり精神的関係になって来なければ敬というものは生まれて来ない。
その点でいつも日本語に感心させられるのでありますが、日本人は愛するということを「参った」と言う。love とか lieben とかと世界にはたくさん愛すると言う言葉がありますけれども、日本語が一番発達しておる。そもそも「参った」ということは「敬する」ということです。男が女を、女が男を尊敬して始めて参ったという。
単なる愛ではない。
勝負をしてもそうです。負けた時に発する言葉は世界中大抵どこも同じで、「こんちくしょう!」とか、「糞くらえ!」とろくなことはないが、日本人は参ったと言う。負けて頭を下げる、立派なことです。愛するだの、惚れるだの、といううちはまだまだ駄目でありまして、第一、惚れるという字は「?」偏に「ゆるがせ」「たちまち」と書いてある。心がぼけるような、すぐに変わるというようなことではあてにならぬ。これからの日本の若い者は男女共に相手に参らなければいけない。参らぬような恋愛はしない方が宜しい。
P.205 : 父は敬の対象・母は愛の対象である
同じ様に親子の間も、親は子に参り、子は親に参らなければならぬ。
殊に親と言っても、父母には自ずから分業があって、母は愛の対象、父は敬の方を分担するように出来ておるから、子供を偉くしようと思えば、先ず親父が敬するに足る人間にならなければならぬ。これが一番大事な事です。
藤樹先生の説かれた哲学は、決して子供の親にたいする事だけを答えたものではない。しみじみ読んでおると、親父の役目は大事だなということが判る。ところが、藤樹先生の孝の哲学を説いた本は世間に沢山出ておりますが、このことに気のついておる注釈は甚だ少ない。
P.208 : 父というものは物を多く言わぬけれども、滅多に子供に干渉はしないけれども、父とはどういう人であるかということを子供はよく直感しておる。そして常に本能的に父を模倣する。
愚かなる親は、子供が折角買ってやった可愛い靴や帽子を放ったらかして、親父の大きな帽子をかぶり、靴を引っかけたりしておるのは、子供のふざけた可愛い仕種の様に思うが、決してそうではない。あれは子供が親父たらんとして、敬意と自負心とを持ってやっておるのです。子供は子供らしい帽子や靴だけで喜ぶものでは決してない。母親が喜んでおるだけです。子を知るは親に如ずと言うけれども、子を知らざるも亦親に如かずであります。
要するに盲目的な愛情は堕落する。親と子の間に最も大事なものは敬である。これが藤樹先生の孝の学問であります。
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