悠遊自在塾  第30回資料                                      2006年12月

<悠遊自在塾資料 2006.12

「神と仏の色即是空」 柳澤桂子&玄侑宗久(往復書簡) 

文藝春秋 2007 1月号  P368 P376  <抜粋>

 

≪第五信≫  柳澤桂子 → 玄侑宗久

 

 私は、神は存在すると思います。けれども、それは人間の外に存在するので

はなく、私たちの脳の神経回路として存在すると思っています。・・・

 

現代人より下等なネアンデルタール人が、今から七万年前に、死者を葬り、

遺体の周りに花を飾っていたことが分かっています。その頃からすでに、私た

ちは祈りやまつりごとをしていたのです。

 その意識レベルがどのくらいのものであったかはわかりませんが、私たちの

遺伝子の中には、畏れをもつこと、感謝すること、祈ること、祀ることなどを

支配するものがあると考えられます。・・・


 

 人類の意識が進化して、ものを二元的に見るようになると、人々はいろいろ

なもののなかに神が存在すると考えるようになりました。アニミズムです。

 さらに人類の意識が進化して、自我意識が強くなると人格神の時代がやって

きます。イエスや仏陀のような宗教の天才の説法に教化され、その人を神とあ

がめるようになります。今がその時代です。時代がたつにつれて、いろいろな

教祖が生まれ、宗教も多彩になっていきます。

 今よりももっと意識が進化すると、おそらく自我を超越して、偶像としての

神のない時代が来ると私は予測しています。けれども、畏れ、祈り、感謝の神

経回路はなくなりませんから、私たちは脳の神経回路として神をもつことにな

ります。けれども「自分」という感情にとらわれることはありません。・・・


 

 ドイツの神学者で牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは、イエス

を否定して「神の前に、神とともに、神なしに生きる」といっています。この言

葉をはじめて読んだとき、私は大変感動しました。まさに私の気持ちを言い当

てているからです。

 私には、願い事をする神はいません。何かがうまくいかなかったからといっ

て、恨む神もいません。そのような神を私は否定します。けれども私の神経回

路のなかには、宇宙の偉大さに畏敬の念を抱き、祈らざるを得ない神は存在し

ます。神とは、宇宙の偉大さに畏敬の念を抱かせる神経回路だと私は思ってい

ます。ですから神は私たちを助けてくれません。罰を加えることもありません。

 

西欧では、ホスピタル・チャプレンという牧師さんや神父さんがいて、病院

や家庭で寝ている病人を訪れます。日本では、法衣を着たお坊さんが病院の中

を歩くのをいやがられると聞きました。残念なことです。

 けれども、宗教というものは、病人や困っている人の悩みを聞いて慰めてあ

げるだけではないのですね。ひとびとに自我を捨てさせるのが、宗教のほんと

うの務めだとおもいます。ほんとうに自我を捨て切れたときには、ジェット機

に乗って雲を突き抜けたときのように、真っ青な空に出るのです。

 そこには苦しみも不幸もありません。そこまで人々を導いてくださることが

宗教の務めであると思います。ぜひ世界中の宗教家が一致協力して、人類の成

熟を目標に努力していただきたいと思います。

 レベルの低い宗教に惑わされて、苦しみの上に巨額のお金を取られたりして

いることがあるということを耳にします。苦しいときには、理性を失って、そ

のような罠に引っかかりがちですが、不幸な人が一層不幸になることがないよ

うに願ってやみません。・・・

 

 私は、四〇年に近い病気の間、けっして人に甘えませんでした。かわいげが

なかったかも知れませんが、自分がしっかりしている方が、人に頼るより辛く

ないということを学びました。

 心霊ブームというようなものは、テレビというメディアを通した一種のショ

ウのようなものです。そのようなものに惑わされる弱い人間にならないでくだ

さい。苦しみは人間を育みます。苦しんでください。苦しみの果てに幸せを見

つけることができるかも知れません。きっと見つけられます。

 私自身は、霊魂の存在も信じませんし、死後の世界もあるとは考えません。

けれども、科学者はどんなことも断定してはならないと思います。だからとい

って、一般の方々が霊能者の言うことに振り回されるのは、困ったことです。

 私たちが人類としてこの世に生まれた奇跡的なことを深く考えてみてくださ

い。今から四十億年ほど前に、海の中の海水が沸騰しているところで、いのち

は生まれたと考えられています。それからしばらくして、いのちの元であるD

NAは油の滴のなかに包まれました。こうして細胞が生まれました。

 この細胞は進化しながら、単細胞として三四億年もの間、海に浮いていたの

です。今から六億年前に多細胞が生まれました。その後の進化は速く、爆発的

にいろいろな形の生物が生まれました。

 そして、私たちの祖先である原始的な哺乳類が生まれるまでに、地球には何

度も隕石がぶつかり、地球は燃え上がり、生物はほとんど絶滅しました。また、

地球が全凍結して、生物のほとんどが死に絶えたこともあります。そのような

苦難を乗り越えて、私たち人類が進化してきたのです。

 大きな脳をもち、科学を発達させました。すぐれた芸術も生み出しました。

宗教も生まれました。私たちがこのような奇跡に満ちた生物であることを自覚

しようではありませんか。この奇跡に恥じないように、誇りを持って強く生き

ようではありませんか。








 

≪第六信≫  玄侑宗久 →  柳澤桂子

 

いろいろな問題に言及していただいたので、何からお応えしたらいいのか、

迷ってしまいますが、まずはやはり「神は存在するか」という問題でしょう。

 ご承知のように、中国人は、体や心を統一的に活動させるエネルギーとして、

「元気」というものを想定しました。これは宇宙の活動原理でもあるわけですが、

陰陽の二元から成るとされました。陰陽はどんなミクロな単位にも存在すると

考えられましたから、それ自体に活動原理があるということです。つまり、こ

の理屈ですと外部に創造者としての神は不要になります。

 そうした生命原理の主体の表現として、老子は「道」といい、また荘子は

「自然」という言葉を使いました。「道」も「自然」も、宇宙やこの私に共通に内在

している力であり、自己の外側だけに存在する絶対者では在りません。

 しかし西洋においては、そうした自立的な生命原理ではなく、すべてに生命

を吹き込んだ主体としての「神」を想定しました。あらゆる生命は神の被造物と

されたわけです。

ここがおそらく洋の東西を分ける最も大きな違いではないかと、私は考えて

います。

もっとも、いずれにしても人間が、人知を超えた力、あるいは心と体を統括

的に支配する力を想定したことは確かで、これを「宗教意識」と呼んでも差し支

えないと思います。これはおっしゃるように、ネアンデルタール人以来連綿と

保たれてきた我々の能力、あるいは心性に由来するのでしょう。「私たちの遺

伝子のなかには、畏れをもつこと、感謝すること、祈ること、祀ることなどを

支配するものがある」という柳澤さんのご意見にも、まったく賛同いたします。

・・・

 

柳澤さんは、アニミズムから一神教へと、宗教は進化したとお考えのようで

すが、たしかにそれは西洋の宗教学における常識として定着した考え方です。

・・・

 

しかしこれは、西洋人の思考のクセと考えるべきものだと、私は思っています。

・・・

 

ダーウィンの自然選択説には柳澤さんも些か疑問を呈していらっしゃいます

が、殊に宗教文化などを考える場合には、はたして「進化」という考え方が適当

なのかどうかも疑わしい気がしています。つまり、アニミズムから一神教にな

り、さらにディートリッヒ・ボンヘッファーの「神の前に、神とともに、神な

しに生きる」状態へと進化するのではなく、それはいつでも「やほよろづ」的に

並列しているのではないでしようか。・・・

 

日本の仏教や神道のあり方をご覧いただくと、たしかに多くの神仏が存在す

るかに思えます。しかし日本人は、それらを本当に「存在するもの」として扱っ

ているのでしょうか。

先ほど私は「よすが」と申しましたが、「おもかげ」という言い方もできるかと

思います。我々日本人は、観音さまや地藏さま、あるいは天照大神とかスサノ

オの命を祀り、その像や社の前では手を合わせたり拍手を打ったりしますが、

それはこれらの神仏を実在と思っているからでしょうか。

おそらく、それは昔から違っていただろうと思います。科学的な知識が多く

なった最近だから違うのではなく、本当に昔から、我々はそれが「おもかげ」で

あり、「よすが」であることを承知しながら拝んでいたと思うのです。これが

文化というものではないでしょうか。・・・

 

私はよく、神仏も妖怪も悪魔も鬼も、虹と一緒ですよ、と講演などで話しま

す。

虹は、目には見えますが、実在ではありません。あくまでも太陽光線と水滴

と我々の感覚や脳機能とが、特定の状況で出逢ったために起こる出来事です。

しかも虹が七色に見えることじたいが、すでに日本の色彩文化を反映していま

す。オランダ人には五色にしか見えないそうです。

「五蘊皆空」という『般若心経』の教えに従うなら、虹も神仏も鬼も「空」

であろうと思います。つまり自性はない、ということです。しかし自性はなく

とも、「空即是色」ですから虹となって見えたり、妖怪や鬼となって現れるこ

ともあるでしょう。そこが人間の複雑さであり、面白さでもあるのだと思いま

す。

ですから私は、近頃のいわゆるスピリチュアル・ブームに違和感は覚えなが

らも、おそらくこれは合理性の行きすぎにたいする補償的な現象なのだろうと

も思うのです。

ただ「なにごとのおわしますかはしらない」「現ならぬ」世界に、守護霊と

か地縛霊とか因縁霊など、じつに西洋直輸入の名前がつけられていることに、

私は非常に情けない気分になります。どうせなら、江戸時代の妖怪を復活させ

ればいいのに、とさえ思います。

このような「霊」は、おそらくアウグスチヌスが『三位一体論』で規定した

「精霊(スピリット)」から派生して増殖し、西洋人の合理性の隙間を埋めてい

ったものなのでしょうが、何より困るのは、彼らが文化的「おもかげ」として

ではなく実在として心霊を語り、見聞きするほうもテレビ局も、まったく「本

気」みたいだ、ということです。困ったものです。・・・

 

 江戸時代の白隠禅師という方は、若いころの坐禅中の幻覚や体外離脱のよう

な不思議な体験を振り返り、晩年になって「内魔動ずる時、外魔便りを得」と

いう教典の言葉で述懐しています。

 おそらくそうした不可思議な現象をもたらす原因は、外部だけでもなく、ま

た内部だけでもないのだと思います。

 今の心霊ブームにおいては、霊を完全に外部のものとして語るわけで、まっ

たく安易すぎて気に入りません。

 もしかすると、柳澤さんとは腹立ちの論点が少し違うかもしれませんね。

 

 

 

  

   

  

「神と仏の色即是空」 柳澤桂子&玄侑宗久(往復書簡) 

文藝春秋 2007 .1月号  P.368 〜 P.376  <抜粋>