■悠遊自在塾 鴨宮弘幸塾長プロフィール

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 宇宙の真理を求め、求道四十年余。
2003年まで横須賀を中心に「悠遊自在塾」開催。
2004年より東京塾開講。
多くの人々の間に”目から鱗”の感動が広がっている。
「浅く広く」から「広く深く」へ
鴨宮塾長寄稿.「私の履歴書」

   05/05/16:第二稿「二度目の誕生日」アップしました。
 
 昭和17年(1942年)9月18日、広島県竹原市の貧乏寺の長男として誕生。
のちに、父、全てを捨てて『真理』を求め東京へ出る。そんな父を子供心の片隅で誇りに感じ、家族そろって内職、貧しいながらも楽しく暮らす。

 寺に生まれ育ったせいか、理想の人間像は「お釈迦さま」。お釈迦さまは、何をやっても人より秀でている。子供心にそれが焼きつき「私も文武両道に秀でていなければ…」と潜在意識にあったのか、「凝り性」の始まり。大それたことではなく、ごく当たり前のこと、日常茶飯事の事にも一工夫しないと気がすまない!

 多くの人との出会いによって様々な人生模様を学ぶ。音楽、絵画、写真、テニス、ゴルフ、囲碁、マージャンetc.何にでも興味は示すがどれをとっても一流にはなれない自分、「広く浅く」首を突込み一生懸命努力するがナンバーワンにはなれない自分を発見。
 平凡な自分を知るが故に「非凡」を求めたがったのであろう。高校生の頃、このことに気付く。(天童から普通人へ!?) 針路を定める時期、自分に能力はあるのか?自問自答してみると、・・・「ナシ ! 」それなら能力のある人を生かせばいいではないか。それは総合芸術である「映画」だとの結論に達し、日本大学芸術学部映画学科へ入学。芸術は創造、創造の世界は無限である。無限の世界には、こだわりが無い、とらわれが無い、縛りが無い・・・ 自由な世界だ 。

 「真の自由人」を目指して芸術の道を歩み始め、「無形の世界」の自由を含めた<真の自由>へと意識が拡大、日大芸術学部から立正大学仏教学部へ転入。
 これを第二の人生の誕生日とし「有形・無形の世界」での創造生活が始まる。目に見えるものと見えないもの、すべての事象に興味を抱くようになる。

 「すべての縁」・「すべての現象」・「すべての条件・環境」は、如何にしてあるのか?如何にして出来ているのか?それら諸現象の中で生きている私たちは、その「縁」をどのように「見、聞き、感じ」とればよいのだろうか?

 つまり、如何に生きればよいのだろうか?
宇宙の成り立ち、宇宙の法則とは何なのか ・・・?
宇宙の法則に遵って生きるとは、どのような生き方なのだろうか?
爾来四十年余、求道の日々。
          

 今、第三の誕生日を迎え、社会組織から解放され身分的には自由人になる。
第三の誕生は未知との遭遇、全ては『宇宙意志』の計らいにお任せである。
 第三の誕生日の祝いの席で、恩師から次のような言葉をいただく。

「魚は、広い海を泳ぎまわっている。しかし、海の全てを知り尽くしてはいない。鳥は、大空を飛び廻っているが、空の全てを知り尽くしてはいない。私たちの一生は、『学生』です。学ぶことは生きることです。生きることは学ぶことです。」と…。
以心伝心…。

宇宙意志に向かって歩いていこう。
知り尽くすことのできない広い海! 知り尽くすことのできない広い空! 
それを貫く「偉大な力」(サムシング・グレート)・
「宇宙意志」(宇宙の真理・宇宙の法則)を求めて歩み始めよう。




 私の履歴書 第二稿

     「二度目の誕生日 」  
  
    
 2003年「躍進」3月号掲載


    

        「 窮子の目に涙 」      鴨宮 弘幸

 映画の余韻を胸に残し、古びた扉を押し開けると、街はすでに夕陽に染まっていた。映画館前の商店街は、買い物カゴを下げ行き交う人であふれていた。
 
昭和三十八年、秋。私が啄木の詩集と英語辞書、そして百円玉一つを手に家を飛び出してから半年が経とうとしていた。
 
別段、家庭に不満があったわけではない。自分の才能を活かして映画をつくっ てみたい・・・そんな若気にまかせ、ふらりと家を出たのだった。
 
 映画館をはしごし、紫煙の漂うクラシック喫茶で夢にひたる。酔いにまかせ、 場末の酒場で明け方まで芸術論を闘わせる自由と放埓の日々。それでも私は、 私なりに己の人生と真剣に向き合っていたつもりだった。もっとも、ときには 親父の居ないのを見計らい、こっそり母親のもとに小遣いをせびりにいく甘さ ももちあわせてはいたが・・・。

 大人びた世界に酔いしれていたはずの私が、しかし商店街に一人たたずみ途方に暮れていた。いつの間にか秋の日はとっぷりと暮れ、すでに買い物客もま ばらになっていた。

 その日私は、それまで同棲を続けていた女性と別れた。捨てられたといって
もいいだろう。夢と情熱以外何一つもたない十九歳の私には、もう帰る場所が
なかったのだ。

  ヨレヨレのレインコートの襟を立て、冷たい夜風の吹く街をあてもなく歩い た。暗い夜道にコツコツと自分の足音だけが響く。その靴音を聞きながら、ぼ んやりと親父のことを考えていた。

 子どものころ、私は親父のことを心から尊敬していた。何につけ法で結ぶ 結びグセに閉口することもあったが、R会の重職にあり、人様のために東 奔西走する姿は誇らしくもあった。

 しかし、いつのころからか、親父が身を置く信仰の世界と、自分のめざす人 生との距離が開いていった。信仰の世界を認めてはいたが、それがあたかも窓 越しの風景のような距離感を持って感じられたのだった。

  きれいごとだけではすまない世界、人間の弱さや欲望といったほころびのな かにこそ人生があり、映画芸術が人生そのものに思えた。そして、自分が求め るものもそこにあるような気がしていた。

  いつしか私は、飛び出したはずの家に向かって足を運んでいた。何かを心に 期したわけではない。帰る場所がそこにしかなかったからだ。 外灯に照らされた門の前で一瞬の逡巡はあったが、私は努めて平静を装い玄 関のノブに手をかけた。

 それから先の細かい経緯はよく覚えていない。ただ、親父が何も問いただすことなく、「墓参りに行ってこい」とだけつぶやいたことを覚えている。こう して、中途半端な窮子の放蕩はあっけなく幕を閉じた。

 家に帰ったが、私に罪悪感はなかった。ほんとうの意味で窮子がめざめたのは、それから数日後のことだった。

 私がせしめていた小遣いは、じつは親父が用意していたものだと母から聞かされたのだ。しかも親父は、自分が重ねてきた親不孝のサンゲだといい、自分のものを質に入れてまでお金を工面していたらしい。

 その話を聞きながら、私は家に戻った息子を前に、押し黙っていた親父の顔を思い出していた。あのとき、親父もまた子を案ずる思いを悟られまいと必死に平静を装っていたのではないだろうか。
親父のほころびが見えた気がした。

「あの親父がねぇ・・・」
薄笑いを浮かべながらそうつぶやく私を怪訝そうな目で見つめていた母のまなざしが、すぐにやわらかなものへと変わっていった。
 そのとき、ニヒリストを装う窮子の私は、不覚にも涙ぐんでいた。


           <2003年「躍進」3月号に掲載されたものです>